狂気
最近こそ“ストーカー”なんて呼び方が一般的になってきたけれど、そういう輩はどんな時代にも存在したわけだ。
母は一晩帰って来なかったけど、次の日には帰ってきたと思う。
はっきり覚えていないけど、何日も帰って来ていなかったなら、幼かったわたしもさすがに記憶していたと思うから。
帰って来なかった一晩の間、母の身に起こった事を後に聞いた。
わたしが下校途中に父に呼び止められた日の出来事だ。
わたしが学校に行っている間、父はどうやって探したのかわたし達の生活している下宿屋を探し当てた。
そこへ押しかけ、玄関で声を荒らげたらしい。
その内容はわたし達を連れ戻したいと言う事と
「子ども達と過ごしたい」
と言う訴えも含まれていたらしい。
下宿屋のおじさんと息子さんは仕事で不在、そこには幼い弟と下宿屋のおばちゃんと母しかいなかった。
今でこそこういう行為は通報すれば何とかなったのかもしれない。
けれど、母は恐怖を感じつつも(父親なのだから子ども達に会いたいのも仕方の無い事なのかも…)と思ったと言う。
まさか、そのまま子ども達を連れ去るつもりでいたとは微塵も思わなかったようだ。
「夕方には返す」
との言葉を信じ、嫌がる弟をなだめ父に渡してしまったのだ。
父は汚いやり方を使った。
本来はわたしも連れ去るつもりだったのだろうが、わたしは逃げてしまって3歳の弟しか連れて行く事ができなかった。
父は子どもをだしに母をも連れ戻すつもりだった。
母は弟を迎えに行くために待ち合わせの場所に迎えに行った。
でもそこには弟の姿はなく父しかいなかった。
そして、強制的に車に乗せられた。
抵抗し、約束が違うと訴える母にダッシュボードに刃物がある、と脅したと言う。
そのまま母は父と一緒にわたし達が住んでいた家へ連れて行かれてしまった。
家の中にも弟の姿はなく、電話も隠されていたという。
でも、父がいない時を見計らい電話線を辿って、押入れに隠されていた電話を見つけ親戚に連絡をして何とか逃げて来たようだ。
もうこの辺のくだりは、最近ニュースで流れるストーカー事件そのものである。
何とか逃げ帰って来た母。
そして、戻って来ない幼い弟。
ある夜、一緒に寝ていた母が布団の中で泣いて言った
「○○(弟の名前)は、どうしているかなぁ…」
と。
弟には、その数ヶ月後、わたし達が父のいる家へ戻るまで会える事はなかった。
父のやり方は結果的に母とわたしを連れ戻すことに成功したのだった。
弟と引き離された母が別居を諦めたからだ。
わたしが2年生に進級する春、また父との暮らしが始まった。