わたしと家族

離婚した両親、それからのわたしについて思う事を整理する

新しい環境で

祖父に新築の家を与えられたわたし達家族の生活は、それまでとも特に変わった事はあまりなかったように思う。

わたしは知り合いのいない中学校へ進級し、弟も転校した。

ここへ越す前に暮らしていた所と越した所が車で20分もあれば着く所だったのでパート務めをしていた母も務めは続いていた。

 

しかし、ここの新しい家は祖父の住まう家からわずか徒歩で5分とかからずに着いてしまう距離であった。

「スープが冷めない距離」

とはよく言うけれど、冷めないどころか熱々のまま行き来できる距離なのだ。

孫のわたしと弟にはさほど感じられないしがらみでも、母にとってはうんざりする事もあっただろう。

 

また家を新築した所の目の前には畑があり、そこは祖母が趣味(と言っても100坪くらいある)で野菜を植えていたので、畑仕事にやってくる祖母とほぼ毎日顔を合わせる事になる。

特に嫁姑の関係が良くない、という訳ではなかったと思うが祖父に新築してもらった家に住む事になった母は毎日姑と顔を合わせる事にそれなりのストレスがあったと思う。

元来、母は言いたい事はストレートに表現する方だったので陰険な感じはなかったけれど、それでも突然祖父の用事で車を出したりする事には少し疲れていたようだ(祖父は車が運転できなかった)。

 

そして、父はと言うとこの頃には自分で土方(どかた)の仕事を始めるようになっていた。

新車でトラックを購入し(そういう事も母には相談なし)て帰宅した時、母は呆れ返っていた(多分この頃の母は金額は不明ではあるが、少しづつ祖父にお金を返済していたようだった)。

 

まあ、それでもこの仕事が父の性分に合っていたのかそれから10年間はこの仕事が続き、朝は早く出かけ、夕方には帰宅するサイクルが出来上がった。

 

わたしはと言うと、思春期に突入したせいもあると思うが父の事はますます嫌いになっていっていた。

と言うのも、父はこの頃から仕事を終えるとパチンコ通いが始まったからだ。夜はパチンコ店が終わる頃までパチンコをしているようで帰宅するのも深夜になっていた。

競馬も熱心でスポーツ新聞に赤ペンで印を付け、競馬専用にノートを作り、何やら熱心にメモや表を作っていた姿を思い出す。

 

傍から見れば、新築の家に住み、幸せそうに見えていたかもしれないが夫婦はとっくに行き詰まっていて、子ども達もそんな両親の元で生活していたのだ。それぞれの気持ちのすれ違いが少しずつ広がっていったと思う。