わたしと家族

離婚した両親、それからのわたしについて思う事を整理する

母の遺産相続で思うこと

2020年12月

母の後見人の弁護士さんより母の「財産の引き継ぎ」についてのメールがわたしと弟宛に届いた。

現在母の遺産は僅かな額で後見人の報酬を差し引くと母の火葬代にも満たない額。

しかし、それでも遺産は遺族に相続されるのだが、その相続人がわたしと弟、そして配偶者であるOの3人。

弁護士さんは

「Oと関わる事を避ける意味で相続放棄

を勧めてきた。

本来ならば遺族間で連絡を取り合って決めらる内容らしいが、Oと連絡を取り合う事をわたしたちが拒否しているので相続を放棄した方がいいのではないかと勧めてきたのだ。

 

認知症の母をOに8年間丸投げしていたわたしが言うことでは無いとは思うが、わたしはこの道理に素直に頷く事ができない。

法律上Oは母の配偶者かもしれないが、その務めを果たさなかった事、わたしたち家族から母を奪った経緯を思うとやはり微々たる遺産ではあるが、それをOに相続させる事に抵抗がある。

Oの母へ対するネグレクトで母が行政に保護されてから、後見人が決まるまで母の年金は振り込まれたその日に引き出して使っていたO。

きっと母の遺産も棚ぼた感覚で使うだけではないのかと思うと怒りがこみ上げてくるし、相続人になるからにはこれまでにかかった母の搬送費用(Oの元から入院先の病院までの)や火葬費用も相続してくれよ、と思う。

 

2011年12月

母は若年性アルツハイマーと診断されていた。

まだ完全に脳の機能がなくなっていた訳では無いが、そんな母をわたしを騙して連れ去った。そして、その翌月には「“入籍”したので母の荷物を送れ」という一方的なFAX。

こんな一方的で誘拐のような事をした男が法律上では配偶者。だから、母の子ども達よりも優先される理不尽さ。

母が連れ去られた時に相談した警察も「民事不介入」を理由に取り合ってくれなかった。

わたしたちは、言われるがまま泣き寝入りするしかないのだろうか。

これまでの事だってわたしは耐えてきた。

日々記憶力が低下しているであろう母を思わない日はなかった。

わたしたちが受けた苦しみや悲しみが報われる事がないのだろうか。

Oのやってきた事は制裁を受けるべき事ではないのだろうか。

わたしが納得できないのはその事なのだ。

 

「盗られ妄想」の思い出

母はアクセサリーが好きだった、と言っても高価な物などではない。

私が幼い頃の思い出の中ではよく母のお気に入りのアクセサリーがガチャガチャと詰まった箱を開けては眺めていた母の姿がある。

 

そんな性格ゆえなのか、母の盗られ妄想が出てきた頃(もちろん初期段階の頃は“盗られ妄想”という言葉すら知らなかった)は、よく「アクセサリーを失くした(または置き忘れてきた)」と電話で言われる事が多かった。当時の私は本当に母が失くしたと思っていたし、ある時母からの電話で「お店に修理に出したのに返されていない」などと言われるとそんな事は信じられないし、そそっかしい母の事なので「どこかにあるよ」と言うしかなかった。

 

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このメモには特に母が思い入れのあるアクセサリーについて書いてある。

 

母はよくこれらのアクセサリーを「○○○に忘れてきたかなぁ」等と言う事が多かった。そして大抵の場合は本当に置き忘れていた事が多かった。

 

ただ、ある時期を過ぎると(多分我が家での同居が始まる直前頃から)「○○○に盗まれたかも」と言い出すようになった。

初めてその言葉を聞いた時はショックだった。

以前の記事にも書いたと思うがデイケア先で「私が盗んでる」とスタッフの方に言ったからだ。

送迎を担当して下さるスタッフの方からそれを言われた時のショックは今でも深い傷になっている。

 

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このメモの日付は2011年7月

同居の為、我が家へやってくるほんの2ヶ月くらい前のメモだと思う。

 

このメモは母がメールでのやり取りを書きとったものらしく、先方からの返事なのか「私は盗んでません」とある。しかも、特定の名前がありその方(とはどんな関係なのか知らないけれど)へメールを送信したり、電話をかけていたようだ。

家族でさえショックな「盗られ妄想」、病気の事を知らない他人にまでそんな事を言っていたのだとしたら、本当に申し訳なく思う。

 

母が特に大切にしていたアクセサリーがどこにあるのか知る事はできない。本当にどこかに置き忘れてしまったのかもしれないし、Oの元にあるのかもしれない。

 

認知症の症状の一つに「盗られ妄想」という事があるけれど、実際に体験すると笑い事で済まされる経験などではないのだ。その言葉を見聞きする度に胸に苦い思い出が蘇り、あの時の鬼のような母の表情を思い出す。

 

 

母のノート

記憶が曖昧になった母は“メモ魔”になっていたようだ。

でも、数冊あるノートのうちきちんと使い切った物はほとんどない。

これはその中でも、全然使ってないじゃん!と思うノート。

 

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ノートの書き出しに「2010 (平成22)」とあるから、その時に書き始めたノートだと思う。

 

「 1/13(水)今迄にない寒さ!」

だそうです。

 

次のページから白紙。

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このノートにはこの部分しか記入されていなかった。

 

整理も兼ねて、私のメモ帳にしよう。

追記(2020/11/15)

母が亡くなる記事まで、約一年以上このブログは投稿していなかったのか。

 

母の事で大きな変化はなかったけれど。

話しは前後してしまうけれど、備忘録として今後投稿していきたいと思います。

間に合わなかった最期

2020年11月6日、午前9時。

母が永眠しました。

享年71歳。

 

母の容態が急変した、と入院先の病院から電話があったのが5日、木曜日の13時頃。

担当の医師からでした。

 

入院した時に家族の意思確認として「延命措置は行わない」としていたので、その確認と現在入院している所では処置に限界があるとの事で親族にどうするか確認する為の電話だった。

 

延命措置はしないまでも、そのままにしておく訳にもいかず、とりあえず提携先の総合病院へ搬送される事になった母。

 

15時頃には総合病院へ搬送され、検査及び処置を施されるも大きく下がった血圧、採血もままならず、不調の原因を探る事もできなかった。

 

夫に促され、私は一泊するつもりで荷物をまとめ母の入院先へ向かう事にしたけれど。

 

新型コロナウイルスの影響で非情にも「面会不可」だと言われる。電話応対した女性看護師の冷たい口調に心が潰される思いがした。

「要するに“死んで”しまわないと会えない(面会)のですね!?」

と訊ねると

「そういう事になりますね、ごめんなさい」

と言うが心のこもらない謝罪の言葉ほど人を傷つける物はないのだなと実感した。

 

それでも翌日には母の元へ向かおうと思い、何か連絡があるかもしれないとスマホを眺めながら床についたのが真夜中の12時。

 

朝方4時。

愛犬の排泄の催促で起きる。

気にしていたスマホを改めて見ると1件の留守電。

男性看護師が母の急変を伝える電話であった。

と、同時に弟夫婦からも連絡がある。

弟夫婦の元にも病院から連絡があり、血圧が急激に下がっているので面会に来ては?という連絡だったそうだ。

4時頃弟夫婦は母の元へ到着していた。

 

私たち家族も5時半に車で母の元へ向かう事にした。

 

 

高速をひたすら走る間(私たちが到着する約2時間前)に母は息を引き取った。

 

病院の霊安室に安置された母はきれいに化粧を施され、安らかな顔をしていた。

頭を撫でるとまだ温もりがあった。

 

9年ぶりに再開した息子たちは、母のあまりの変わりように絶句していた。

 

お母さん、間に合わなくてごめん。

電話に気づかなくてごめんね。

どんな意識にあったかは分からない。

けれど、まだ意識のあったであろう時に弟夫婦が声を掛ける事ができたのは幸いだったと思う。

たった一人でこの世を去ることがなくてよかった。

母の保護当日について (支援課のNさんから)

この日は朝から入院するまで、3人の職員の方からこまめに母の様子が知らされた。

下記は夕方になってNさんから電話で聞いた保護から入院までの様子。

 

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7月×日

午前中

母とO氏が住んでいる所へ、警察官、区役所職員、移送する警備会社と赴く。

これまでも「区役所職員」が訪問してきた事が分かるとドアを開けなかった為、この日は警察官が名乗りドア開けるように言う。すると素直にドアが開けられた。

ドアが開き、室内に入り、母とO氏はそれぞれ別々に担当者が対応した。

 

職員が室内に入ると母はベッドに横になっていた。

衣類は上半身に白っぽいシャツ、下半身は紙パンツのみ。そのパンツもパンパンに膨れておりこまめに取り替えられていない事が見て取れた。

その母を毛布で包み、抱えて車まで連れていく。

玄関に母の物と思われるような靴は見当たらなかった。

その間わずか10分程度。

 

 

そこから市内の精神科の病院へ車で移動。

そこで看護師3~4人で母を宥めたりしながら着替えさせた(この間抵抗などをした)。

そして医師の診察。

広さは6畳程の部屋。

医師の机がある程度。その中を落ち着かずにうろうろとする。

いわゆる「長谷川式」と呼ばれる認知症の検査は不可能。

 

 

母の外見は足にぶつけたような、つねられたような痣が3箇所(写真撮影済)。腕にも同じような痣が少し(治りかけのような黄色っぽい痣や青い物も)。

仙骨付近に擦れたように赤くなっている箇所がある。“床ずれ”というよりも紙パンツなど長時間穿いていてもこのような症状になる事があるそう。

頭髪は“スポーツ刈り(坊主)”のように短く刈り込まれていた。(Nさんは「野球する男の子のような」という表現をし、さらに「女性なのに短く切られていてショックでした」って言ってた)

 

母は「トイレに行く」などと言うが、いざトイレに行っても便座に座る事ができない。

 

 

今後の事など、諸々の手続きも含め支援課の職員と面談できるよう調整する。

 

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ここまでが16時過ぎに支援課のNさんから電話で聞いた母の保護と入院までの経緯。

支援課からの文書

木曜日、支援課のNさんから、わたしからの「手紙が届きました」と電話連絡があった。

(この日も母の住まう所へ訪問したがドアは開けて貰えず、ドア越しに母の声を確認した、と言う。

話は逸れるけど「ドア越しに母の声を確認した」ってどうやってるんだろう?

O氏に母の声を聞かせて下さい、とか言うのかな?)

 

そしてわたしの心配をよそに

「確認して文書でお返事します」

との返事にちょっと拍子抜け(苦笑)

弁護士さんが言った

「“証拠”になるから書面で返事する事に抵抗があるかも」

と言う予想は外れた模様。それかそこまで考えてないのかな?

ま、でも口頭で説明されるよりは理解しやすくなる。

 

 

金曜日。

Nさんからパスワード付きのメールが届いた。

 

まず、保護する当日の流れ。

入院先の病院名と住所。

そして、入院してからかかると思われる費用。

成年後見制度のパンフの一部が添付されてきた。

 

ここまでの中で特に気になる所はない。聞いていた内容とほぼ同じ。

(ただ、移送費用が1万円ほど値引きされ、2回目も同業者に委託するというのであれば1回目で保護できなかった場合2回分で15万円、という変更点はあった)

移送費用も母が無事に入院できた時点で支払う、と言うこちらの条件も受ける、と言うことだった。

 

 

Nさんはそそっかしく、不確定な事も言い切ってしまうタイプのようだ。その上“早口”なので、彼女とはメールでのやり取りの方がストレスがたまらなくていいかもしれない。

 

こうしている間にも母の保護まで刻一刻と時は流れている。